こんにちわ!豊田市で30年自家焙煎コーヒーの喫茶店を営む、カフェママこと、野々山のりこです!
当店のマスターもカフェママも、夫婦そろっておしゃべりが大好き。
今回は、当店の焙煎士でありバリスタでもあるマスターの
「コーヒーにまつわる豆知識」今回は、
南米にコーヒーづくりを広めた男のドラマをご紹介します!
喫茶店で一服している気分で、おたのしみください。
ある日、喫茶店にて
わたし、いつもラテメニュー頼んじゃうんだけど、
今日は、何だか、ブラックでいただきたいの! はじめての人にオススメの銘柄とかってありますか? |
マスター:
ありがとうございます〜、そういう事なら、中米の「メキシコ」なんてどうです?
ウチの「メキシコ」は、くせがなく、飲みやすいんです。
ミルクや砂糖とも相性がいいんですよ。
ええ、じゃ、それを、おねがいします!
「メキシコ」ね。・・・あら?コロンビアにグアテマラ、中米産のコーヒーって多いのね! |
そうなんですよ!ルイ14世とかの時代に中南米に広まったらしいですよ。
へ~そんな昔に。 |
ええ、そうみたいですよ。
しかも、ルイ14世の畑のコーヒーの木をこっそり盗んで、
中南米へ持ってっちゃったなんて言う話なんです。
中南米にコーヒーづくりを広めた男
コーヒーの原料であるコーヒーノキはエチオピアかアラビア半島生まれと言われています。
そんなコーヒーノキが、飲む習慣と共に、世界に伝わり始めたのは15世紀ごろ。
コーヒーの伝播の歴史の中で、様々なドラマが繰り広げられてきました。
そんなコーヒー伝播の伝説の中でも、最もドラマティックと言われる一説がこちら。
現在のコーヒー栽培の中心地、中南米へ、
フランスから海を渡りコーヒーの木を持ち込んだ男のお話です。
コーヒーを伝えたのは腹いせが発端?
1714 年フランス。
絶対王政の絢爛豪華な時代。
隣国オランダは、いち早くアジアの植民地へコーヒー生産を拡大させ、
フランス人もまた、自国の植民地でコーヒーを作る機会をうかがっていました。
太陽王と呼ばれ、「朕は国家なり」でおなじみの国王ルイ14世は、
オランダ、アムステルダムの市長から献上されたコーヒーの苗木を、
パリの植物園で大切に栽培していました。
実は、コーヒーの木こそが、のちに、中南米のコーヒーの母の木となるのです。
ある事件が起きたのは、その9年後。
フランスに海軍士官ガブリエル・ド・クリューという人がいました。
1723年、 クリューは、カリブ海のマルティニーク島に赴任を命じられたのです。
・・・しかし、彼はどうも行きたくないらしい。行きたくないのに、行かされるので、
腹いせとでも言うのか(※諸説あります。)
ルイ14世の大切なコーヒーの苗木を少し盗んでしまいます。
※イラストはイメージです。
え~ルイ14世にばれなかったの!? |
どうやら王のお医者さんの手を借りたそうですよ!
そして、コーヒーの苗木はカリブの島へ向けて持ち出されます。
船は、嵐、海賊、病気、船内の泥棒・・・困難を極めたものでした。
残り少ない飲み水を苗木と分かち合いながら、
なんとか航海を乗り切り、マルティニーク島にたどり着きます。
クリューは、コーヒーの若木をこの地に植えました。
やがて、この木をもとに、
西インド諸島からメキシコ湾岸一帯にかけて、
コーヒーノキはどんどん増え、
中南米は、大きなコーヒー産地となったのです。
海軍士官クリューは、その「コーヒー」を利用して、
中南米の領地化をも進めたらしいですよ。
その功績は認められ、彼は無事、帰国し、こうして今の時代まで語り継がれているんです。
へ〜結果が良すぎて、コーヒーノキを盗んだ事はおとがめなしだったって事ね? |
僕たちもこうしておいしいコーヒーが飲めるので結果オーライですよ。
ぜひ、他の中南米産コーヒーも味わってみて下さい!
まとめ
今回は、
コーヒー伝播史で最もドラマティックと言われる、
南米にコーヒーづくりを広めた男、ガブリエル・ド・クリューのドラマ
をお話しました。
こちらのお話は、カフェドシェフのメニュー表に掲載されている小話。
マスターが過去に地方新聞に寄稿したものを編集し、ここに載せました。
お店の雰囲気を感じていただけたらと思います。
こちらの記事もおすすめ ↓前回のマスターの小話 ↓動画あり!マスターによる「コーヒーの淹れ方」 ↓専門学校で教鞭をとるマスターの立体ラテアート ↓当店の豆はLINEでも購入できます!お試しください
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この記事の監修 野々山和夫(マスター) カフェドシェフ経営者 焙煎士・バリスタ 高校卒業後 大阪あべの辻調理師専門学校入学 愛知県生まれ
保有資格等 調理師/衛生管理者/中部パティシエ/コンピューター保育専門学校非常勤講師
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イラスト・編集:ともりん