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トップ > コラム一覧 > 野々山憲子 私がカフェママになるまで vol.1「母の思い出ー母の月にちなんで」

今年の5月は「母の月」です。

「母の月」にちなんで私の母の思い出を綴ります。

誰しも母がいてこそ今がある。

そんなことを改めて思う5月にしてみませんか?


執筆者紹介

野々山憲子
カフェドシェフのカフェママこと「野々山のりこ」です。
このコラムでは、「カフェママ」という役割を脱ぎ、
一人の人間としてつづります。

幼い頃からお菓子作りが好きで、母に調理師学校への入学を勧められたが、高校卒業後に阪神百貨店入社(現阪急阪神百貨店)。7年間婦人服売り場で勤務したのち、結婚。カフェドシェフ開店とともに共同経営者となる。好奇心旺盛で人と話すのが好き、美味しいもの新しいものに目がない。
とにかく考える前にやってみるが信条。お客様との会話が大好き

 

5月は「母の月」

 

 

今年の5月は「母の月」です。

今年、母の日は母の月へー日本花き振興協議会

あなたも、ぜひ、

母との温かな日々を思い出してみませんか?

 

それでは、

私の母の思い出話をしましょう。

 

私の母の思い出

 

 

私の母

私の母は

昭和6年生まれで、終戦のころが14歳でした。

青春真っただ中の頃が戦中、戦後で食べるものがなかったと生前よく話していました。

 

自身も9人兄弟、結婚した船乗りの父も9人兄弟。

結婚した当初は、長男の父を先頭に8人の弟や妹がいて

両親の亡くなった父の家で、妻であり母の役目もして

結婚後生まれた私たちの養育もして

相当な苦労をしたのではないかと思います。

 

 

母の思い出

 

私が思い出す母はいつも割烹着を着ていました。

 

家にいる時は台所にいるか、縫い物をしているか、

家にいない時は畑仕事をしていました。

じーっと座っている時がなかった。

いつも働いてました。

 

学校から帰るとすぐ台所仕事をする母のそばで

料理が出来上がっていくのを見るのが

私は好きでした。

味見をさせてもらうのが嬉しくてそばにいたのかも。

食いしん坊なのは、環境ですね。(笑)

 

 

母であり父であった

船乗りの父は、5か月の航海後1か月の休暇というパターンを繰り返していました。

一年のうち2ヶ月しか家にいませんので

家の事、子供の事はすべて母の役目です。

私たちも、母子家庭で育ったような環境です。

母は、母であり、父でもあった。

時に優しく、時に厳しく、

今思えば、大変だったろうと思います。

 

 

私の生まれた集落の母たち

 

私の生まれた集落は家が密集しており、

子供の泣き声が聞こえ、晩御飯のにおいがして、

まるで映画「3丁目の夕日」のような日常でした。

私の父は船乗りでした。

周りも父と同じく船乗りの家庭が多く、

女、子供で生活する家が多かったので

母たちは近所、隣と助け合って生きていました。

 

こどものころは、母の用事がある時は、

ご近所さんの一人暮らしのおばあちゃんの家に預けられました。

 

おばあちゃんの家でおやつをもらって母を待つ。

母が迎えにくるまでおばあちゃんちで遊んでました。

もちろん実のおばあちゃんではありません。

 

母は煮物をたくさんしたときなどは、

おばあちゃんにちに届けていました。

おばあちゃんは、かごに入れたおかずを渡すと、とても嬉しそうで、

お使いにきた私に必ず飴玉やおやつをくれました。

 

お互い暮らしていくために、自然に助け合っていたのだろうと思います。

 

 

 

船乗りの妻としての母

 

 

父がいない5か月はある意味平和です。

女性だけだし、食べるものもそれほど量もいらない。

接待しなくてはいけないお客さんがくるわけでもない。

 

父が帰ってくると大変です。

一か月父は王様になるのです。

まず、毎日の晩酌のために数種類のつまみがいる。

父が起き眠るまで私たちは父に気を使わなければなりません。

朝は父を起こさないようにする。

昼ごはんを終えるとたばこうを吸う父のために

学校から帰ったらたばこを買いに行く。

父がたばこを吸うときには、灰皿をおいておく。

夜は同じ船乗り仲間が遊びにくるので、お接待をする。

子供のころからおじさまたちのお酌をしていたように思います。

今だと考えられないですね。

田舎ですので、お店が遠かったこともあり、

集まりはいつも誰かの家でした。

お客さんが帰ると、母が山のような食器を洗っていた記憶があります。

乗船前は緊張のためか、機嫌の悪くなりがちな父をなだめたりして、

忙しく緊張を伴う一か月が終わると父が出航する。

5か月間は、女、子供で過ごす。

そんな生活が父が船を降りるまで続きました。

 

 

父への、母の気持ち

 

父が家にいる間は母は父の言うことをほぼ聞き入れていたように思います。

私がこどもの頃は、なんで反論しないんだろうと思っていましたが、

大きくなり、少しわかりました。

 

父は、勤務先と居室が同じの

貨物船内の過酷な環境のなかで5ヶ月間働き続け

時折、給油の為に港に立ち寄る数時間、そのときだけ丘にあがれる。

 

大人になった今では、母の気持ちがわかります。

過酷な環境で、家族のため子供のために

働き続ける父が帰ってきたときは

出来ることはすべてやっていたのだろうと。

 

母への感謝

 

 

母はいつも誰かの為に働いていました。

結婚当初は、父の弟や妹のために、

子供が出来てからは、子供のために

ご飯を食べさせ、服を縫い、一日中動いていました。

亡くなる前に「娘が3人いてよかった。」と言ってくれたので

母は幸せだったのだろうか?

という長い間の疑問が少し解消された気がしました。

幸せの形はそれぞれ違います。

母は、母で幸せな時間があったのだろうと思います。

 

5月は姉妹で一年に一度集まります。

産んで育ててくれた母に感謝しながら、自分たちの元気を確認しあいます

 

まとめ

今回は、「ママの月」、いえいえ、「母の月」にちなんで

  • 私の母の思い出

を、おおくりしました。

あなたも、お母様との思い出きっとあるでしょう。

温かい気持ちを胸に、感謝を伝えてみてはいかがでしょうか?

 

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この記事を書いた人

野々山憲子(カフェママ)

カフェドシェフ共同経営者 経理・営業を担当 パティシエ ホールスタッフ 

高校卒業後、阪神百貨店入社(現阪急阪神百貨店)。7年間婦人服売り場で勤務。その後、カフェドシェフ開店。共同経営者となる。
好奇心旺盛で人と話すのが好き、美味しいもの新しいものに目がなく、とにかく考える前にやってみるが信条。
Facebookでのインターネット販売は自分の屋号で活動中。

鹿児島県生まれ

 

保有資格等

調理師/手作りパン研究普及会製パン技能専科修了/簿記一級/着付け着装師補

 

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参考:

今年、母の日は母の月へー日本か花き振興協議会(外部サイト)

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