当サイトはブラウザIEに対応しておりません。PCでご覧いただく場合はIE以外のブラウザでご確認ください

トップ > コラム一覧 > 野々山憲子 私がカフェママになるまで vol.2「父の日によせて」

6月19日は、父の日です。

年齢を重ねると、よく父の事を思い出すようになりました。

小さい頃は、外国航路の父がカバンいっぱいに詰めた

お土産を持ち帰ってくれるのがとても楽しみでした。

あなたは、小さい頃どんなお父さんとの思い出がありますか?

大人になるとお母さんほどは、しゃべらないけど

小さい時は、お父さんと過ごした日々があると思います。

父の日に、

「お父さんありがとう」って感謝を伝えてみませんか?

きっと喜ばれると思いますよ。

執筆者紹介

野々山憲子
カフェドシェフのカフェママこと「野々山のりこ」です。
このコラムでは、「カフェママ」という役割を脱ぎ、
一人の人間としてつづります。

幼い頃からお菓子作りが好きで、母に調理師学校への入学を勧められたが、高校卒業後に阪神百貨店入社(現阪急阪神百貨店)。7年間婦人服売り場で勤務したのち、結婚。カフェドシェフ開店とともに共同経営者となる。好奇心旺盛で人と話すのが好き、美味しいもの新しいものに目がない。
とにかく考える前にやってみるが信条。お客様との会話が大好き

 

父の日

 

もうすぐ父の日ですね。

母の日と比べてどうしても盛り上がりにかける父の日ですが、

今年の父の日は、6月19日日曜日です。

普段接する時間が短いお父さんには面と向かってなかなか

「ありがとう」って言いにくいですよね。

私もそうでした。

私ももう少し感謝を伝えれば良かったなと思っています。

 

本日のコラムでは私の父の思い出話しをさせて下さい。

 

海の男 「私の父」

父は航海を終えると、

アメリカ製チョコレートや、缶詰、東南アジアのお人形など

バッグに入りきらないお土産を抱えて帰ってきました。

私は、5ヶ月振りの父の帰宅が嬉しいというよりも

父のお土産がたいそう嬉しかった記憶があります。

休暇中の父は「王様」でした。

 

私の父は昭和3年生まれ9人兄弟の長男です。

早くに両親を亡くし、自分が大黒柱となり幼い弟や妹たちと生活していました。

15歳から船乗りをしており、

はじめはカツオ船の船乗り。

母と結婚したのち、私が物覚えつく頃になると、

貨物船に乗っており、

5か月の航海後1か月の休暇というパターンを繰り返していました。

若い頃は南洋航路フィリピン~沖縄~鹿児島という航海で、

航海を終えるとアメリカ製チョコレートや、缶詰など

バッグに入りきらないお土産を抱えて帰ってきました。

沖縄がまだ日本に返還される前でしたので、

お土産のチョコやお菓子がたいそう珍しかった記憶があります。

 

 

父の晩酌

父は休暇中は、釣りにいったり

夏になると私たちを海に連れていってくれたりしてくれました。

力持ちで姉妹二人を両腕にぶら下げるって事もよくしてくれました。

 

父は、夕方からは晩酌するのが日課でした。

母は、父が休暇を気分よく過ごせるように常に気遣いしていました。

つまり「王様」です。

私たちも父に甘えるというよりは、母の手助けをして

父の晩酌の用意や、時折開かれる宴会のお客様の接待のお手伝いをしていた思い出があります。

父の友人はほぼ船乗りさんでしたし、

居酒屋が近くにない田舎ですので

持ち回りでおうちで宴会をしていたんですね。

私たち子供も宴会のお客様のお接待をするのがあたり前でした。

母が料理を作っている間に、

父たちの宴会の最中に私たちがおはら節を踊ったりして

お客様が手拍子を打ったりして、

いわば私たち女の子は「宴会の花」だったわけです。

踊りを踊るとお小遣いがもらえたので、ある意味嬉しかったですね。

 

小学生や中学性を宴会にかり出すなんて、今ではとても考えられないですが、

船乗りを父に持つ友人に聞くと同じような思い出を持っているので、

似たような環境だったんだろうと思います。

 

 

乗船前までそんな日々が続き、一ヶ月過ぎると乗船の日がやってきます。

乗船前は緊張のためか、機嫌の悪くなりがちな父をなだめたりして、

忙しく緊張を伴う一か月が終わると父が出航する。

5か月間は、女、子供で過ごす。

そんな生活が父が船を降りるまで続きました。

 

父を思う母の気持ち

父が家にいる間は、母は父の言うことをほぼ聞き入れていたように思います。

私がこどもの頃は、なんで「王様」に反論しないんだろうと思っていましたが、

大きくなり、父の職場、つまり父の乗船している船が補給の為

鹿児島港に停泊するということになり、

父に会いに行ったときに

その理由が少しわかりました。

 

父の職場は貨物船の船の上です。

寝起きする場所も船です。

父の居室はまず、「狭い。」

自分の居場所となるスペースはほんの畳一枚ほど

6畳ほどの部屋に4人だったと記憶しています。

今の船乗りさんは、環境が改善されているかもしれませんが、

 

父はこんなところで寝てるんだと思いました。

歩くスペースもやっとです。

自分のスペースの中に、自分の衣類、家族からの手紙、タオルなど日常用品一式があります。

そしてかなりのエンジン音。

一日中音がします。

そして揺れ、油のにおい

寝ているときも、ごはんを食べるときも揺れ続けています。

私はすぐに気分が悪くなって、

下船しました。

「狭い」「騒音」「揺れ」「におい」

そんな環境のなかで5ヶ月間働き続ける。

時折給油の為に港に立ち寄る時や、船の点検をする時に港に停泊します。

その時は交代で船を下りることができる。

つまり、そのときだけ丘にあがれる。

 

大人になった今では、父の休暇中に「王様」のように好きなようにさせていた母の気持ちがわかります。

家族のため、子供のために、過酷な環境で働き続ける父が帰ってきたときは

出来ることはすべてやっていたのだろうと。

 

 

 

船上での父

晩年になり、船乗りを退職してから

父は、現役時代の話しをよくするようになりました。

 

船上での父の気持ち

 

船乗りをしているときは早く丘に上がりたかった。

 

若い頃は、体で仕事を覚えさせるという気風のもと

ミスをすると殴られた。

理不尽な思いもした。

 

職場で嫌な事があっても、丘の仕事なら仕事が終わったら家に帰れる。

でも自分たちは交代できるときまでは、一日中船の上だ。

 

船上での父の仕事

 

自分は船員学校をでていないし、一等航海士や、機関士になるにはハードルが高い。

しかし体力には自信があるから、自分の出来る範囲でいけるとこまで頑張ろうと思った。

 

仕事をきちんとやり続けて歳を重ねてやっと甲板長までたどりついた。

甲板長は、ボースンともいう。

船長は、船全体の指揮官であり、

船長の補佐的な役割を担うのが一等航海士だ

二等航海士は、一等航海士の補佐をする。

甲板長は甲板全体のリーダーで、一等航海士の指示を受けて甲板部員を指揮監督する。

船体・船倉・船用品の整備、荷役準備、貨物の安全・保全・船内の見回りが主な仕事だ。

揺れる不安定な甲板で作業するのは、常に緊張の連続で

けがとは隣り合わせだ。

特に雨の日や風の強い日などは、神経がすり減った。

 

一瞬の判断ミスが大事故に繋がる。

実際命を落とした仲間もいる。

障害物の多い船の中で事故がおこらないように

安全に確実に荷物の積み卸しをする。

船内の安全を見回る。

長い航海の中で安全に仕事をする事を常に心がけていた。

仕事は一生懸命やった。

その為乗船の度に違う船長にも可愛がられていたので、甲板長としては評価は高かったように思う。

 

体の自己管理

 

船乗りの仕事は体が資本だ。

勤務や、当直、休憩が細切れのスケジュールで決まっている。

自分の体調が悪くなると仲間に迷惑がかかる。

乗船中は体調管理に気を使った。

幸い体は丈夫だったし、乗船中に病気になり下船するということはなかった。

 

密室の船の上での生き方

 

一番大変だったのは、人間関係だった。

休暇が終わって乗船すると前と同じクルーで仕事するわけではなく、

毎回船長以下クルーが変わった。

5か月間閉じ込められた船の中で、人間関係が悪いと5か月間が地獄だ。

ただでさえ危険の多い現場で人間関係が悪いと、仕事のミスにつながる。

だから自分は最初にものすごく気を使い、各クルーの性格の把握につとめた。

 

乗船前は新しいクルーの中でうまくやれるだろうか?

今度の船長は以前仕事をしたことがある人だろうか?

今度の航海は無事に帰ってこれるだろうか?

 

色々考えたら出航前は緊張のため眠れなかった。

 

 

・・・ということを私に話してくれました。

 

父への感謝

母はそんな父の気持ちを理解していたのだと思います。

母は、鹿児島港に船が補給の為に停泊すると父から電話があると

父の好きなものや着がえなどを詰めてバスに乗り

届けていました。

停泊するといっても一日か二日ですし、家には帰ってこれません。

交代で船から下りて母の荷物を受け取りまた船に戻る。

家に帰りたいといえる訳もなく、もくもくと甲板で仕事する。

家族の為、自分の仕事を全うする為。

家族の大黒柱として働く父に感謝していた。

 

だからこそ休暇中は「王様」にさせてあげた。

 

仕事は自分を成長させてくれて、生活の糧となる報酬をもらえます。

ただ良いことばかりではない。

 

 

時に理不尽に耐え、自分の為、家族の為に働いてくれた。

父はよく頑張ったと思います。

 

小さい頃、父は私たちにつらいことがあっても「負けるもんか」と思って頑張れと良く言っていました。

それは、きっと自分自身にも言い聞かせていたのだろうと思います。

母が亡くなる前に「父ちゃんには、感謝している」

と私たちに言ったので、「どんなところが?」

と聞くと「子供たちをちゃんと学校に行かせて、ちゃんと独り立ちするまで頑張ってくれた」

との答えでした。

 

お父さんがちゃんと働いて、ちゃんと家族を養うってあたり前のようで、あたり前でない。

私たちにも「今、ちゃんと生きて自分の糧となる仕事があるのは父ちゃんが頑張ったからだよ」

と伝えたかったのかもしれません。

 

両親が頑張ってくれたから、今がある。

それを思い起こす父の日です。

お父さんありがとう。

 

まとめ

 

お母さんは、毎日一緒でご飯を作ってくれたり、

一緒にお買い物をしたりして常に一緒にいるので

「ありがとう」との思いが自然にわいてきますが、

おとうさんの仕事を身近に見てる人の方が少ないと思うんですね。

大人になって仕事するようになり、仕事って大変だとわかる。

今自分が平和に暮らせるのは、あたり前でなく、

両親が頑張ってきたから、また周りの人々の助けによって

今の生活がある。

 

今年の父の日は、6月19日日曜日です。

 

お父さんに感謝を伝えてみてはいかがですか?

照れくさかったら、お父さんの好きなものをプレゼントする。

それだけで気持ちは十分伝わると思います。

 

こちらの記事もおすすめ

↓この著者の過去の記事

今年の5月は「母の月」!?お母様に感謝を伝えよう

↓うちのお店でコーヒーブレイクはいかが?

【カフェドシェフの世界観】カフェ空間をもっと楽しむ為の3つの要素

↓コーヒー豆に詳しくなりたいなら

【コーヒー豆】産地の違いは、香味の違い。個性の決め手はここにあり!

↓当店の豆はLINEでも購入できます!お試しください

【Webでカンタン購入】自家焙煎豆の買い方

 

 

この記事を書いた人

野々山憲子(カフェママ)

カフェドシェフ共同経営者 経理・営業を担当 パティシエ ホールスタッフ 

高校卒業後、阪神百貨店入社(現阪急阪神百貨店)。7年間婦人服売り場で勤務。その後、カフェドシェフ開店。共同経営者となる。
好奇心旺盛で人と話すのが好き、美味しいもの新しいものに目がなく、とにかく考える前にやってみるが信条。
Facebookでのインターネット販売は自分の屋号で活動中。

鹿児島県生まれ

 

保有資格等

調理師/手作りパン研究普及会製パン技能専科修了/簿記一級/着付け着装師補

 

ケーキ

この記事が役に立ったら
ぜひシェアしてください

coffee

読まれている記事
ランキング